人生について



恋と愛と情と

2022.12.28(Thu)

以前から、一度整理しておきたいと思っていたことがある。
「恋」と「愛」と「情」についてだ。

「何をガラにもないことを」と思うかもしれない。その通りだ。笑
だが、簡単に思うところを纏めさせて欲しい。

まず、「恋」だが、これは10代の若い時代に訪れるものであろう。
甘酸っぱいような、それでいて心が痛むような、異性への憧れである。
子供特有の好奇心や、背伸びのようなものなのかもしれない。

そしてそれは、少し成長して「恋愛」に変わっていく。
オレは若い頃、女性とちゃんと付き合ったことがなかったので偉そうな
ことは言えないが、付き合っていればそれが恐らく「恋愛」なのだろう。
ただ、この段階でもまだ互いの好奇心と駆け引き、心の探り合いだと思う。

さらに進んでいくと30代くらいだろうか、結婚を経てそれは「愛」に変わる。
好奇心は既に無くなりつつあるが、その分、相手との絆が出来てくる段階だ。
そして、相手を守りたい、尊重したいという気持ちが生まれる、それが「愛」だ。

結婚後、子供が生まれることで、それは「愛情」になる。
かなり二人の間には強固で簡単には解くことが出来ない絆が出来上がっている。
そして二人の「愛情」は共に「愛」の結晶である子供に注がれることになる。

老いて最後に残るのは「情」である。
「愛」は遠の昔に消えているかもしれないが、一度出来た「情」は一生消えない。
相手に先立たれても残るもの、それが「情」なのである。

「恋」→「恋愛」→「愛」→「愛情」→「情」
人間の男女関係は、こんな感じで変遷し、幸せな一生を終えるのかもしれない。


「オレが考える離婚理由」 2018.03.03(Sat) 実はある程度予想はしていたが、昨年末、妻と離婚した。 離婚原因はズバリ「子供が出来なかった」こと、 究極的には「セックスレスが原因」だと思っている。 妻はオレが「不能」だと思っていたようだが、そんなことはない。 精液検査では「平均より上」だったし、50歳を過ぎても問題ない。 やはり、一度冷めてしまった愛は取り戻すことは出来ないのだろう。 「愛」が無くなったあとは「情」だけが残っている状態だった。 それでもオレはそんな日々の生活に幸せを感じていたのだが。。。 妻も不妊治療には付き合ってくれたのだが、どうもイヤイヤで オレが説得して漸くクリニックに行ってくれるような状況だった。 あとでクリニックの先生から聞いた話だが、卵の数を増やす為に 通常は排卵誘発剤を注射で打つのだが、注射がイヤで確率の悪い 錠剤にしてもらったのだとか。それじゃ出来るものも出来ない。 今思えば「子供なんかそれほど欲しくなかった」のかも知れない。 妻が別居を始める前の年、俺はどうしても子供を諦めきれず、 知り合いである第三者の卵子提供を受けての代理出産を検討した。 このことは当然のことながら事前に妻にも説明し、当初妻は そのことに対して快く同意していた(その証拠も存在する)。 しかし、一昨年の受精卵作製を兼ねたインド旅行のさなか、 突如として妻側から「離婚しよう」と宣告された。 オレは頭が真っ白になったことを覚えているが、その時は 互いに離婚後の未来を語り合うなど、まだ仲が良かった。 しかし、インド旅行の最終日、飛行場に向かうタクシーの中で 妻は態度を次第に変化させてきた。「離婚の話を進めたい」と。 俺は「その話は日本に帰ってから」と返すと妻は憮然とした態度になり、 その後は一度も機嫌を直すことなく別居・離婚に突き進むこととなった。 今思えば、妻は財産分与でより多くの金銭を得るため、オレへの 未練を断ち切ろうとあのような辛辣な態度を取ったと考えている。 あるいは、当時思いを寄せていた男がいたなら、情が移ったか。。 妻は卵子提供者がオレの知り合いだったことが不快だったようだが、 どちらかというと自分に子供が出来なかった事が妻のプライドを傷つけ、 オレとその卵子提供者に対して嫉妬という形になって顕れたのだと思う。 妻はその卵子提供者の連絡先を突き止め、何度か嫌がらせの伝言を 送信したようだが、卵子提供者からすれば、オレが悩んでいるのを 見かねて慈善行為としてやったことであり、感謝されこそすれ、 しばらく恐怖の伝言に怯える日々を過ごすという憂き目にあった。 彼女に対しては本当に申し訳ないことをしてしまった。 今回一番悔いているのは、卵子提供者が「知り合いである」 ということを、バカ正直に妻に伝えてしまったことだ。 もちろん、「夫婦での隠し事はしない」という自分の信条に従って のことだが、「匿名の第三者としておけば」と何回思ったことか。。。 ちなみに、その卵子提供者は当時婚約者が居て、今はもう結婚して いるだろう。もちろん、離婚が成立したことなど一切伝えていない。 彼女からすれば、もう二度と思い出したくない出来事だろう。 オレとしては夫婦の将来を考え、何とか子供を残そうと頑張ってきた。 オレと妻と子供と二匹の愛犬、そんな将来像を勝手に描いていた。 早くに子供を作っていれば、今ごろ幸せな家庭だったかも知れない。 結局、妻は子供を残すことよりも自分の仕事(会社)が大事だった訳だ。 子供が出来ることで、自分の会社に影響することを怖れていた訳だ。 それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。 ただ、結果的にオレは俺を選んでくれた妻を幸せに出来なかった。 そのことについては、本当に申し訳なかったと思う。 不思議なのだが、喧嘩のたびに「離婚したい」と考えていたオレが、 実際に離婚してみると毎日のように自責の念に駆られる。 時折、妻が見せていた彼女の中の幼い少女の姿を思い出すたびに 今でも胸を締め付けられる思いがする。 俺は決して妻を嫌いになって離婚した訳ではない。 出来れば、犬2匹と一緒に一生を添い遂げたかった。 そして、思い出すのは旅行や犬達との幸せな日々ばかり。。。 前向きに生きたいとは思えば思うほど、頭から離れなくなる。 何故もっと互いに傷つけ合わずに別れることが出来なかったのか。 そして最後に「あなたと結婚して良かった」と言って欲しかった。 ・・・・・ 財産分与は解決金というかたちで1400万円以上のお金を妻に支払った。 当初の予算をオーバーしていたが、妻への感謝の意味も含まれている。 最後にヒトコトだけ言っておきたい。 ごめんな、○○○。本当に申し訳なかった。そして、今までありがとう。
上司 2008.01.08(Wed) 今日から仕事始めだったわけだが、会社に到着するやいなや 上司には毎年恒例の「今年もよろしく云々かんぬん。。。」 どうも好きになれない、この慣習。 たかが、12月から1月になっただけじゃないか。 それはともかく、ふと自分の今までの会社人生で、 歴代の上司の顔を思い浮かべていた。。。 入社したて日光時代のMさん、品川に転勤してからSさん、Yさん、Sさん、 Fさん、希望で異動した中目黒時代のTさん、平塚時代のTさん、○さん、 Nさん、Kさん、某キャリア(N)業務委託時代のMさん、某キャリア(P)に 転職してHさん、某キャリア(K)になってKさん、Kさん、またHさん。。。 数えてみると、のべ15人にもなる。 お気づきだろうか、一人だけ名前を思い出せないのだ。 髭面のタヌキ顔は鮮明に覚えているのだが、いくら考えても思い出せない。 実はこの上司、はっきり言って、オレはかなりキライだった。 彼もオレのことを過小評価しており、パワハラに近い仕打ちを受けていた。 思い出せないほどキライだった、今あらためてそう思う。 オレは転職も考えたが、結局、辞めなかった。 こんなやつのせいで辞めたとなると、一生後悔するのが分かっていたからだ。 地獄のような日々だったが、嵐は1年ほどで過ぎていった。 上司なんてそんなもんだ。 上司が気に入らないからと言って辞めていたら、何回転職したか分からない。 人間、一つ我慢すれば一つ大きくなれるのだと思う。
「意識」とは何か? 2003.09.24(Wed) 我々は常日頃、「意識」というものをあまり「意識しない」で生きている。 ふと「自分とは何か」を考える時、「意識とは何か」という形而上学的な  疑問に連結する。これは「宇宙の神秘」と同じく人類の知的好奇心を最大  とするところの至上命題かと思われるが、科学者の間でも大きく2つに説  が分かれている。                           一つは臨死時の体外離脱体験などに基づく「超越論」であり、意識は脳に  根差しているものではなく、遊離的で時には離脱することも可能だという。 もう一方は、物質のみが実在するものであるとし、精神や意識などもそこ  から導こうとする「唯物論」的な考え方で、脳内に生じる電磁界効果によ  り意識が発生するとする説などがこれに当たる。             私自身はこの疑問に対し、「意識とは、高度に発達した脳が機能すること  により感じられる知覚の集合体」である、と自己完結的に納得してきた。  これは、どちらかというと「唯物論」の考え方に近く、「超越論」を否定  しているように思われるかもしれないが、「意識」として出来上がったも  のはその実体が無く、その点においては「超越論」に近い。        ここで「高度に発達した脳」を前提としたのは、脳に備わっているあらゆ  る事象に対処するためのアルゴリズムが高度かつ複雑であればあるほど、  その集合体は自己を認識する能力を持ち始め、すなわちこれが「魂」とよ  ばれる実体のないものになると思われるからである。つまり、高等な生物  であるほど、自分を認識できると思われる。事実、意識が覚醒しているこ  とを表わす脳波(α波やθ波)も人間特有のものであることが分かっている。 従って、ロボットであっても、AI知能のプログラムが高度になればなる  ほど「意識」つまり「自我」を持ち始めても不思議ではない(但し、それ  には想像を絶するほど膨大なアルゴリズムの集積が必要であることは言う  までもないが)。逆に、下等な生物であるほど「意識」を感じることは出  来ず、単なる「生存あるいは種の保存のみを目的とした有機的な機械」に  近づくと考えられる。「意識」とはそんなものではないだろうか。     デカルトのいう「精神が脳内の松果体を介して肉体に接する」という説は、 あながち間違いではないのかもしれない。               
男の未来 2000.05.11(Thu) 最近の急速な医学の発達により人間の遺伝子構造や脳の機能も次第に明らかになりつつあるが、 なかでも脳構造の男女差については興味深いものがある.結論から言って、男女それぞれの役割 に適した脳の構造になっているわけだ.まず、大きな違いは右脳と左脳を繋ぐ連絡パイプの役割 をしている脳梁の太さが女性の方が太いらしい.これはつまり、右脳と左脳の連係が強いという ことであり、例えば、右脳で感じた視覚的データを言語データに変換してアウトプットする能力 に長けている(つまり、良く喋る)、視覚から入ってきた様々な情報を処理する能力に長けている (つまり、良く気が付く)といったようなことだ.逆に男性の脳は立体的な構造物を把握する能力 や的に矢を当てるような運動能力に長けている.これらはすなわち、人類が発祥した頃より形成 されていた「男女の役割分担」と密接な関係があるのは言うまでもない.男女雇用機会均等法が 制定されて久しいが、もともと「働きバチ」として存在している男性にとっては、少々腑に落ち ないところでもある.そう遠くない将来、遺伝子科学の発達によって「男性いらず」の社会が到 来するかもしれないという不安もある中で、男に未来はあるのだろうか.          
イジメられっ子に贈る言葉 2000.03.20(Mon) 実は吾輩も中学生の頃、イジメられた経験があります.クラスでも比較的活発な方だったので 「生意気」と思われたのでしょう.不良グループ数人から言葉の暴力を受けました.しかし、 そんな吾輩も小学生の頃はクラスメイトを「イジメた」ことがあるんです.いわゆる「イジメ られやすい子」に対して水をかけたりしました.その頃の吾輩は「悪ふざけ」のつもりだった のでしょうが、相手にしてみれば立派な「イジメ」です.もちろん、そのあと先生からビンタ を食らったのは言うまでもありません.しかし、この2つの対照的な経験は今でも鮮烈に脳裏 に焼き付いています.                                 最近の学校は学級崩壊とか教師のレベル低下、イジメ、親の過保護などが問題になっています が、その中でもイジメは恒久的な問題だと吾輩は考えています.つまり、イジメという社会現 象は子供が集団生活する限り、永久に消滅することがないと思うのです.それは、子供がもと もと大人には無い残虐性を持つのと、特異な個体は平均化されようとする動物本能的な原理・ 原則(エントロピー最小の法則みたいなもの)があるからです.さらに日本では「出る杭は打た れる」という諺があるように、特にその傾向(集団的平均化)が強いと思われます.      しかし、イジメられっ子に言いたいのは「決して自分を卑下する事なかれ」ということです. 先ほど「イジメられやすい子」という言い方をしましたが、これは言い方を変えれば「他の子 とは違う子」、つまり「他人にはないモノを持っている子」ということになるのです.程度の 差こそあれ、世の中で成功している大人の多くは、必ず他人とは違う何かを持ちあわせていま す(もちろん、努力も必要ですが).すなわち、人生において最も大事なことは、「人にはない 自分の特徴を早くつかんで、それをいかに将来花開かせるか」ということなのです.     筋肉隆々なマッチョ男も、その体格は決して生まれつきなのではなく、必ず厳しくて辛いトレ ーニングを行ったはずです.これはイジメでも同じです.今、イジメられて辛い思いをしてい れば、将来必ず花開いて「思いやりのある優しい人間」になれるはずです.そして、その暁に は、イジメられるどころか周りから愛される大人になるでしょう.            
LoveとLike 2000.02.17(Thu) あるバラエティー番組である女優さんが「あなたのことはlikeだけどloveじゃないのよ」 とキツイ言葉で相手の男性タレントに対してクギを差しておりました.その男性タレントや周りの タレントも笑っておりましたが、実はこの発言、人間の恋愛感情に関する重要なポイントを含んで いるように思います.端的に言って、下等な動物になるほどloveはあるけれども、likeと いう感情は持たなくなるのではないかと思うのです.つまり、loveは本能的なものであって、 相手の顔や体つきから得られる外見情報をもとにしていて、一方、likeは相手の性格や趣味や 癖、その他内面的な情報から判断していると思われます.つまり、今回の女優の発言は「あなたの 性格は好きだけれども、性的には魅力無いわ」と言っているのに等しいわけです.よく恋愛話で、 likeからloveに発展した話を聞きますが、これは厳密に言うとウソだと思います.人間に 限らず全ての動物はまず無意識のうちに相手に性的な魅力があるかどうか判断しているハズです. つまり、異性に対する恋愛感情は人間も動物も「まずloveありき」なのであって、likeと いうのは男女の恋愛に拘わらず、人間特有の高度な知的活動の成せるワザなのだと思います.人間 に離婚が多いのも、likeとloveの両方が揃っている必要があるからだと思います.   
「神」の定義 1997.7.25(Fri) まず初めに断っておきますが、私は如何なる宗教も信仰していません. せいぜい、慣例的に行われている冠婚葬祭程度に従っているだけです. 「神を定義する」とは興味ない人にとってはどうでも良いことでしょうが、時々論争の種になるので、 ここで私の考えを整理するために且つ記録するために述べておきたいと思います.とは言っても、全然 難しい話ではありません.自分なりに単純明快な定義ができたので報告したいだけです.こういうディ ベート形式の論評は初めに結論を提示しておくことが重要だそうなので、そうすることにします.      「神」=「人類が未だ解明できていないもの」・・・・(1) 実に簡単です。人類はこの「神」のためにどれほどの無駄な血を流したことか! ではなぜ、(1)式が成り立つのか.これも簡単です. すべての答えは事実から得られるデータによって導き出されます.  データ@:過去にさかのぼるほど信仰心の強い民族の割合が多い.  データA:過去にさかのぼるほど科学が未発達で解明できない自然       現象や物理現象が多い.                データB:人間は見えないものに対する恐怖心が強い.       データC:人間は何か強大なものに頼ろうとする性質がある.   これらのデータをまとめると、                   「データ@+A」=「時間と人類の科学力の関係」・・・・(2)  「データB+C」=「人類が何かに頼る必要性」 ・・・・(3) のようになります.また、(3)式について明らかに          「過去における神の必要性」>「現在における神の必要性」 といえますから、(2)、(3)式より                   「科学力が発達」=「神が必要ではなくなる」・・・・(4) さらに、一般に                             「科学力」=「不可解な事象を解明する力」・・・・(5) ですから、(5)式を(4)式に代入して整理すると、           「不可解な事象が解明される」=「神が必要ではなくなる」          「不可解な事象」=「神」           以上で(1)式が成り立つことの証明は終わりです.証明方法にはあまり意味がありませんが(笑). 要するに「神」とは方程式でいうと未知数「χ(エックス)」なのです.もちろん、χは1つではなく、 χ1、χ2、χ3、・・・・、χnと、いくらでもあるでしょう.ただし、このχは人類にとってエネ ルギー的に不安定なので定数になろうとします.これが人類の持つ好奇心から生まれる「科学」な のです.この「科学」こそがχをどんどん消去してくれている訳です.他の動物には「科学」は有 りませんので当然、全てが「神」になるわけです.さらに言えば、「進化」=「神の減少」なんて ことにもなってしまいます.ここまでいうと極論でしょうが、事実、地球規模で見ても科学力の進 んだ先進国であるほど「神」を必要としないのは明らかです.確かに信仰している宗教はあったと しても、本心から「神」の存在を認めている人はほとんどいないと思われます.         これから先、人類はどんどん科学を進化させて行くでしょう.そしてついに全ての事象が解明され た暁には「神」はこの世から存在しなくなり、「神」という言葉さえも消えて無くなるかもしれま せん.しかし、実際には私は「神」は存在し続けると想像しています.それは先に示した(3)式が 無くならない限り、「神」は何らかに姿を変えてでも人間の「道具」である必要があるからです. 何に姿を変えるかはそれを使う人間次第でしょう.ちなみに今現在、私の神は「自分自身」です. 頼りない「神」ですが、いつも私はこの「神」に頼って生きています.と言うよりも、頼れるもの がこの「神」しかいないと言った方が良いかもしれません.                 
ディベートについて 1996.11.01  最近のことであるが、会社のある先輩と部屋で「ミンボーの女」という映画を見た.そのあと互いに感想を 話し合っていると、いつの間にか「ヤクザは日本に必要か?」というテーマについて討論していた.ここま ではよくあることだが、その後、話が徐々に"討論"から"論争"になっていった.例えばこんな具合だ.    A:「暴対法をさらに強化していけばヤクザは消滅するはずだし、日本は現にそれを目指している」    B:「警察もヤクザの取り締まりを強化するといいながら、実際は風俗やギャンブルなどのようにわざと     見逃している部分も多い」                                  A:「急に一掃するとは言っていない.徐々に行えば財源も減り、存続することができなくなるはず」   B:「過去の例を見てもヤクザをなくそうとしてうまくいった国はない」                A:「過去の前例ばかり踏襲するのでは発展性がない.新たな可能性を模索するのが人間である」     B:「どこの世界でもヤクザのような汚い仕事をする人間が必要であり、これをなくせば生態系が崩れる     ように社会的不安定が生じる」                                A:「生態系というのは弱肉強食で示される生物共存のための理想形態をいうのであって、ヤクザの話と     は根本的に異なる」                                    といった具合に互いに一歩も引こうとしない.気が付くとかなり険悪なムードになっていた.二人とも心情 的に不愉快になり、お互い内面的な苛立ちがはっきりと分かった.但し、実はこの討論、約20分間続いた のだが、後で冷静に考えてみると明らかに私(A)の"負け"である.後半、どう考えても的を得た発言をして いなかった.確かに討論しながら自分が不利になっていくのを感じたし、"Aの側"に立ったことを後悔する こともあった.しかし、私がそれ以上に"負け"を感じたのは"冷静さ"である.前述の通り、二人はかなり苛 立っていたわけだが、相手の方が"それを隠す"ことに関しては一枚上手だったのである.実はこれには理由 (わけ)がある.                                           今、再び世間を騒がしている例のオウム事件のスポークスマンとして活躍(?)していた上祐史浩氏(現在 は被告人となっているが)が日本で5本の指に入るほどのディベート(討論)の達人であることは報道ないし 雑誌などで良く知られている.マスコミにとっての彼は「ああ言えば上祐」といった具合に、単なる「口の 達者なへりくつ男」としてしかとらえられていなかったようであるが、ディベートを知っている者に言わせ ると、そうではないらしい.彼は自分或いは人の"感情をコントロール"するのが上手いのだという.これは 何も彼が霊能力者であると云っているのではなく、感情をコントロールする"コツ"を心得ていると云うので ある.言いかえれば、ディベートの世界では"感情のコントロール"は技の一つでしかないのである.例えば ある報道番組において周りから質問責めにあっても、彼は実に冷静にスラリと答えてしまう.また、ある記 者会見においては時々感情の高ぶりを露呈し、ボードを投げたりもした.しかし、実はこれらは彼が計算尽 くでやっていたことなのである.つまり、前者のように「自分があたかも冷静のように振る舞う行為」は、 相手に対して徐々に苛立ちを与え、これを続けると相手はいわゆる"逆切れ状態"になってしまう.逆に後者 のように「自分があたかも興奮し、冷静さを失っているように振る舞う行為」は相手の精神状態を落ち着か せ、まるで自分が優位に立っているかのような錯覚を与える.彼はこれらの"技"を巧みに使い分け、利用し ていたのである.事実、今回の"ヤクザの議論"において、私は前者の技にまんまと引っ掛かってしまったの である.私の相手は恐らくその"技"を知っていたのだろう.                       しかし、ディベートの世界でない現実の世界では前述のような"技"を多用するのはあまり好ましくない. なぜなら、現実の世界における"討論"はディベートの世界における"ゲーム(試合)"とは異なり、複雑な人間 関係から構成されているからである.ディベートは昔から特にアメリカの大学などでは盛んで、ほとんどの 大学にディベート・チームなるものが存在する.ルールは至って簡単で、2〜3人で1チームを構成し、2 チームで或るテーマについて対立する意見(必ずしも自分の意見と一致しないところが面白い)をもち、交互 に一人ずつ意見発表を行い、最後に審判が勝敗を決定するというものである.まさに、スポーツでいうよう な"ゲーム(試合)"なのである.しかし、これをそのまま現実の世界に当てはめるのは非常に危険で、最悪の 場合、二人の人間関係を壊しかねない結果となる.                           今回の"ヤクザの議論"の場合、私は("技"をかけられた側でありながら)上記のような危険を察知してか、 討論にストップをかけ話題を変えることに努めた.「不利を悟った側」にとっては非常に勇気が必要な行為 である.しかし、これは現実の世界における"討論"においては、その後の未来を考えると実に有効かつ人間 的な"技"であると私は確信している.                               


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